昭和54年10月16日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此の方のことを、神、神と言うが、此の方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 金光大神の世界というかね。私共はこの金光大神の世界に住まわせて頂く、精進をさせて頂いておるのです。十九節に金光大神は形が無うなったら、来てくれと言うところへ行ってやると仰る様な、融通無碍の世界。信心をさせて頂いておるといろいろとま、不思議な働きを目の当たりに見たり聞いたりする事が出来ます。昨日も昨夜宮崎の方達が、皆んなゆうべ見えとる方達があります中に、高橋さんという方がおられます。
 昨日聞かせて頂いて、もう現在の医学ではどうにも出来ない病人さんの、お取り次ぎをお願いされてございましたが、もう不思議な事が起こったと。というのはそのう牛乳を頂かれたらその牛乳がね、あのどっか傷口から牛乳が出るとこう言われる。医者はそげな馬鹿な事は絶対ないて、やはり食道をね通ってこうと言うとこでしょうかしら。まぁその彼の事はよく分かりませんけれども、とにかくそんな事はないと言う事が事実あっておるんです。これもこれこそ神様のお働きだろうと言うておられる。
 その方がお夢を頂かれた。というのは竜ですね。あのうタツというかねあのうその竜が現れてくるお夢を頂かれたと。だから神様がおかげを下さろうとすると、もう人間の知恵やら力を越えたもの、そこにそういう働きが起こってくる。それを受け止める心というのが、結局竜というのは竜が昇天をする時には、もうそれこそ真っ暗いそのう雨風を呼んだり、真っ黒い雲が降りて来ると言われておりますけれども。
 まどう言う事があってもそれを、まぁそれこそ目の前が真っ暗い様な事があっても、それを神愛おかげとして、それを受けていくおかげを頂けば、それはおかげ頂くよというて、昨日丁度前夜祭の前でしたから、お取り次ぎをさせて頂いた事です。そういう例は合楽では幾らもありますよね。現在の医学ではそういうこつがある筈ないと言われる。だから信心とはね、そういう私共の人知人力ではどうにも出来ない世界を、まかいま見せて頂く訳ですけども、それが信ぜれる信心を頂かなければいけないと言う事です。
 そんな事があるもんかというたら、もう神様を疑うた事になります。それこそ教祖金光大神様が。この方を生神生神と言うけれども、皆んなもその通りのおげが受けられるという、生神への精進の過程においてです、私共が言うなら人間から、神様へ向かって一歩一歩進んで行くという事はね、いつも最近頂いとりますように、決して聖人君子を目指すと言う様なものではない。
 生神というのは何処までも人間が人間らしゅう生きながらね、生神の道を辿らせて頂く事が出来る、手立てを教祖様はね、皆もこういうおかげを受けられると言っておられるのです。ま言うならば教典のすべての中から、そういう手掛かりを得ていく訳ですけれども、合楽ではそれを誰でも生神への手掛かりが出来るように、わかるようにしかも容易う、しかも楽しゅう愉快にさえ、心の状態が弾んでくるような状態の中に、生神を目指していく事が出来るとこういう。
 人間が人間らしゅう生きて行く生き方の中に、生神への道を教祖は御自身が立証しておられるわけです。昔はだから直信の方の中には、金光大神の御神格を受けられた方が幾人もおられます。そういう人間が例えば、神と言った様な言葉を使う事が出来なくなりましてから、そう言う事がなくなりましたけれども、やはりお徳を受けて自他共に助かって行く、しかもその助かりの世界が広うなっていく。そういう私はお徳を受けると言う事はやっぱり、ま神格を頂いていかれると言う事だと思うんですけれども。
 そこで私は思うんですけれども、生神への精進と言う事はどう言う事なのか、と言うとそれこそ簡単です明瞭ですと言われます。天地日月の心になる事肝要だと教えられています。天地日月の心になるという事は。言うならば聖人君子と言った様な生き方を、学ぶという事ではないのです。人の出来ん言うならば人の真似の出けん、精進をするというのではないのです。
 只、凡人私共がですね、限りなくなら美しゅうなろうと精進する事なんです。そして起きて来る全ての事柄の中に、言うならば天地のそれを働きと見る、又は神様のお働きと見て、それを大事に頂いていくと言う事だけなんです。それをここでは成り行きを大事にするとこういう。又は土の心でとこう申します。だから天の心地の心というものを、私共が分かりさえすればです、その天の心に神習わしてもらう、地の心を行の上に現わして行くと言う事なんです。
 成る程言いたい事も言わんで済むおかげ頂きゃいいけども、言わずにおれんと言う事もありますけれどもね。そこにです言わんで済む有り難さ、言わんで済む言うならば、おかげの世界を私共が体験しますとです、それが楽しうなって来るです。だから信心が楽しうなると言う事は、只おかげを受けると言う事が楽しいのではなくてね、どこまでも信心が分かって行くと言う事。その信心が分かると言う事は、天地日月になる事だとこう言う。そこから不思議な不思議な働きが起こって来る。
 これは自分の信心がいよいよ豊かに大きゅうなっていくという、言うならば稽古でもある。それに伴のうておかげもやはり豊かに大きくなっていく。受けものが出来れば受けものが出来ただけのおかげが、はっきりと頂けて来るというのです。昨日は前夜祭の後に、ここのお広前が二年がかりでまぁ出来ました訳ですけれども、その二年間の記録をずうっとあのう映画に撮ってございましたのを、高橋さん昨日持って来て頂いて見せて頂きました。
 まあ随分まぁの時分と言ぁ御信者さん方が出て、奉仕しておる様子やらがありましたが、もういよいよ開教式、そして奉斎式と新築落成の祈願祭の模様が、昨日出ておりましたが。椛目で御大祭を仕えると椛目が一杯でした。ここで御大祭をもう出来た時にゃ、もう写真の模様を見ておると、もう立錐の余地もないごとやっぱり一杯です。結局これが出来た人間心で出来るというのじゃない。神様が先頭に立ってこのお広前が出来た。言うならば受けものが出来た。そこにはもうそこに一杯の人が集まっておる。
 それを見ながら話した事でしたけれども、今度言うなら信徒会館が出来ます。この春の御大祭は恐らくは、あちらで奉仕させて頂く事でしょう。そりゃ何百畳でしょうか。の広さのお広前ですけども、あちらへ移ったら又必ずあちらが一杯でしょうね。受けものというのはそんなにも間違いないものなんです。ですから楽しいです。自分が豊かになっていく自分が大きくなっていく事が有り難いですね。
 それをならどこに焦点を置いて、だんだんおかげを頂いて行くか、というと初めの間は分かりませんから、ただ成り行きを大事にするとか尊ぶとか、それがそのまま神様の働きだからと言う風に頂いておりましたけれども、最近天の心地の心が解明されて参りました。合楽理念によって。勿論それは人間が幸せになっていくという時点においての天地であります。それを私共ではもう天地の事はそれこそ知りて知り難いものと、教祖も仰っておられる様にもう分からない、知れない世界が多い事は間違いないです。
 ですからその全てが分からないけれども、人間が幸福になっていくという、視野に於いての天の心であり地の心なんです。人間がこの世だけでは無い、あの世この世を通して幸せになっていけれるという、天の心であり地の心なんです。範囲が狭いですね。ですから私共がその気になっておかげを頂いていきますと、私共の心の中にスッポリその天の心地の心が入ってくる。言うなら我心に天地があると言う事にもなるんです。
 そのおかげの世界が広がって行く。いわゆる金光大神の世界というのはそういう世界だと思うんです。それこそ断食をしなければならないとかね、例えばま過去の宗教に於いてはそういう、いや金光教に於いても、やはり過去百年の金光教を振り返ってみると、私共の場合でもそういう難しい修行もさせて頂いたけれども、そう言う事はやはり人間らしい宗教ではない。人間らしい生き方をさして頂く。幸せになっていく道ではないというふうに、ま喝破したと言う事でしょうかね。合楽で言う。
 だから合楽では表行全廃ち言う事になったんです。ただ限りなく美しくなろうという精進、限りなく深く広い心になろうという精進、それのは黙って治める生き方ね、そこに言うならば限りないものとの出会い、限りないおかげの世界へのいざないというものを感じます。そこへ入ってしかもそれは私共が一生それに取り組ませて頂く。はぁ一生それにというのじゃなくて、それこそ楽しう有り難う行くのですから、しかもそれはこの世だけで終わるのではありません。
 魂の世界に入ってもその生神への道を、ただひたすらに進ませて頂く事だけなんです。だからせめて私は合楽におかげを頂かれる方達はですね。生神への言うならばま、まぁ段階というか、本気で天の心を分かろう地の心を分かろう。それを自分の生活の上に頂こうと、確信が出来たところからね、それを貫かせて頂こうと言う事が出来たところから、不思議な不思議な働きが起こってくるです。
 昨日、ある方が今度の御造営が六億かかるという事ですから、せめてその百分の一の六百万だけは、どうでもおかげを頂きたいと腹を決めて決心した。その場からフシギなフシギな働きが起こっておるお届けを、昨日聞かしてもらいました。これは限りない美しい心と限りない言うならば、いさぎよい心が一遍に出たからです。天の心になったからです。最近信心はもう地の心、土の心に極まったと言われて来た合楽の信心の中に、天の心をもう一段と、深めていこうという在り方にならせて頂いた。
 勿論天の心というのは、限りなく与えて与えて止まない心です。しかも無条件です。こんな美しい心はありません。しかもその美しい心で、いさぎよい心を出せと言われておりますね。その方の例えばね、百分の一の六百万円だけはどうでも、おかげを頂きたいと限りない美しい心に、言うならばいさぎよい心をそこに出されたところに、もう本当に天の心とはこういう働きが、もうその場から起ておるという事実なんです。はぁこの調子でいくならおかげ頂けるぞという確信も生まれてまいります。
 問題はだから天の心になるという事は、限りなく美しうしかも無条件真心です。しかもそれにいさぎよい心、私共はいさぎよい心というものを、言うならなんと申しますかね、いわば本気でという事になりましょうか。その事に本気で取り組むという事になります。その本気という心が私はいさぎよい心だと思います。そこには成る程天の心というのは、こういう働きを生活の上に表していく事が出来る。地の心を行じていくとこういう働きが起こってくる、というこの体験がね有り難いのであり楽しいのである。
 しかもそこにそれがリズミカルに日々の生活の上に表れてくる。どうぞ皆さん生神金光大神の例えば、生きられ方あられ方というものを私共が思うてみるとよいです。もう本当に限りない美しい心で、全ての事柄に当たっておられますね。もういさぎよさと言った様なものを、通り越えたようなお心で、教祖の神様は御信心を進めておられます。此の方の事を生神と言うがみんなもその通りのおかげが受けられる。んなら私もひとつなろうかという所にはいよいよもって土の心に本気でなろう。
 本気で天の心を自分の生き方の上に頂こうという、やはり決心がなされなければ、ただ生神になろうと言うただけでは、生神にはなれません。そういう働きの中からも限りない確信、神様を信じて疑わない心、そこには現代の例えば人間の知恵力、又は現代の医学なら医学ではどうにも出来ない、言うならば世界も垣間見る事が出来ます。本当に神様の働きちゃ恐れ入ってしまう。というその恐れ入ってしまうという、生活が私は実意丁寧な生き方だと思いますね。
 ひとつその恐れ入った生活の中から、いよいよ生神を目指す信心を頂きたい。形が無うなったらね来てくれと言うところへ行ってやる。これは自由無碍というかね、への心の状態を頂いて、変幻自在という言葉がありますね。あぁいうくの一修行と頂いた事がありますが、修行の第一はくの一修行だと。言うならくの一というのは、女忍者の事をくの一というんだそうです。平仮名のくを書いてね、一を書いてこうくの一と書いてあるね。これが第一自分の心をもうそれこそ変幻自在にですね。
 有り難い方へ有り難い方へと頂ける信心。はぁここは土の心で受けなん、ちょっときついと言う様な修行を頂きよりますと、それがもう自由自在に有り難い有り難いで、受け止めて行く事が出来る。心の状態が開けて来る。私信心の稽古というのはそうだと思う。言うならば心の使い方の稽古。それを私共は天地を手本にして、自然を手本にして、天の心地の心をいよいよ身に付けて行く事。生神はの道はもうこれ以外にない。私はそう確信します。
   どうぞ。